房総半島、鴨川の現場で私と棟梁の鴫原さんはのどかに話しをしていた。
鴫原さん、昨日事務所の近くにある三浦一族が滅びた新井城に行ったんですよ。
知っているでしょう?ほら油壺湾の上の半島に建っていた新井城を。
今は東京大学の臨海実験所になっているけれど。
どうしてって?
11月15日に私達の町内会で文化祭があって、私は歴史発表の担当。
町内会の世話役のドバシさんとカメラを持って取材よ。
東大の職員の方が案内してくれましたよ。
鬱蒼とした暗い木々の中に空堀のあとも残っていて、暗い日だったし小雨も降ってきたこともあってすごく雰囲気がありました。
あそこの本丸の跡に建物を建てる時やっぱりたくさんの人骨が出てきてお坊さん呼んで供養したんですって。
兜の鍬型の出土品も見せてもらいました。兜の上に付いていた鍬型。まだきれいに金色に光ってたわ。
500年前に壮絶な戦いがあったのよ。
あそこで三浦道寸も嫡男の荒次郎も自決して三浦一族は滅びたんだわ。

いやですよ安達さん。
まさか誰かをここに連れてきたのではないでしょうね、と鴫原さんは笑った。
そうかもしれないわね。私のここの肩のところに三浦さんの誰かいるのかも.....
そう言って私も笑った。
カーテンレール取付の仕事が終わって私は三浦半島に戻るべく金谷港に向かった。
しかし待てよ、フェリーは一時間に一本。だから三十分は港で待たなくてはならない。
さてどうしょうかな?と思った時、南無観世音菩薩と書かれた真っ赤な幟旗が枯れた田圃道に点々と続いているのが目に入った。
よしっ!あの旗を辿ってみよう、と私は軽自動車がやっと通れる細い道に入った。
旗はくねりながら山の小さなお寺に続いていた。
12年に一回の観音様の御開帳だった。
ただしお寺は廃寺になった様子で人影は無く凄まじい荒れかただった。
誰もいない寺はこうも荒れはてるものか。
境内はぬかるみ鐘の無くなった鐘つき堂は今にも崩れ落ちそう。
庭に入る門もお化け屋敷みたいだった。
壊れた木戸から庭を覗いたら鬱蒼とかぶるように木々が闇を作っていた。
しかし門の上に目を移した時、私は自分の目を疑った。
信じられないことに門の上に三浦一族の三つ引きの家紋が飾ってあったのである.....。
鴫原さんの危惧は当たっていたことを知る。
私は帰ってきてからすぐにその寺について調べてみた。
寺の名前は道種院。正木時綱の菩提寺とあった。
正木時綱とは三浦一族が滅びる時新井城の崖下にある油壺の入り江から船に乗りひそかに逃れてきた三浦道寸の息子、荒次郎の弟である。時綱は正木時綱と名乗り里見氏の優れた家臣になり、後三浦一族の後裔となった、と軍記物に伝承されている。
私は深い感慨に打たれて考え込んでしまった。


これを単に偶然と呼んでいいのだろうか。
新井城から三浦某が小鳥のように私の肩に乗って一緒に車に乗って、フェリーに乗ってここまで私を連れてきたのかな。
「ホレホレそこを曲がって行くのじゃ。迷わんように赤い旗を立てておいたからの。」とか言って。
三浦某さん、あなたは誰なのよ?
だんだん腹が立ってきた。
コラ!おぬしも武士であろうが。
こそこそと無賃乗車せずに名をなのれ!顔を見せろ!言いたい事があったら言え!
ドバシさんの「またまた安達さんは三浦一族から離れられなくなったね」という言葉を思い出した。