油壺。三浦一族が最後に散った新井城の下にある山に囲まれた美しい入り江の名前である。
1247年鎌倉時代に北条氏はさんざん挑発した挙句に「宝治合戦」で三浦氏を滅ぼした。しかし三浦氏でありながら北条氏に加勢した佐原流三浦氏は細々と生きながらえることはできたのである。
その後270年生き延びた三浦氏はここ油壺湾を見下ろす新井城でついに北条早雲によって滅ぼされ相模一国は北条氏の手に落ちた。
三方を海と断崖に囲まれ、入口は崖に橋が渡してあった新井城はきわめて堅牢な名城で橋を引いて篭城し三年間よく持ちこたえた。だが援軍の望みも絶たれ兵糧も底をつき、兵も三年間の篭城のせめぎあいのうちに失って1516年7月11日の夏の朝、今日を最後と城門を開いて討て出て新井城は陥落した。
陥落する前夜、最後の宴をしたという。
恐らく残っていた全ての酒、食料を並べたであろう最後の宴。
静かな宴であったと何かに書いてあった。
最後の夜に酒を酌み交わしながら皆は何を語ったのだろうか。
城主三浦道寸の息子荒次郎は舞をしたという。
君が代は 千代に八千代に.....と。
その日が来ると私は耳を澄まして森から湧きあがる蝉の声を聞く。
彼らはその日の朝どんな気持ちで朝の蝉の声を聞いたのだろうか。
死を覚悟した三浦一族の戦いぶりはすさまじかったという。
夕方戦いは終わり三浦道寸は辞世の句を残して自刀する。
討つものも討たるるものも土器(かわらけ)よ 砕けて後はもとの土くれ
生き残ってしまった城兵達は城の下の入り江に入って自害したと言う。
最後の宴の夜、もしも戦いが終わっても生き残ってしまったら、皆で下の海に集まって自害しようと話し合ったのだろう。
犬死せんより命の限り戦して弓矢の義を専らにすべし
殿が自刀された後は南の磯に降りておのおの自害されよ
ゆめゆめ生き恥を晒して北条に捕らわれることなど無いように
冥土でまた会おうではないか
その日血潮で朱に染まった入り江はまるで油を流したように見えたと言う。
それで油壺と呼ばれるようになった。
あれから五百年。
山に抱かれて深く入り組んだ美しい油壺湾は今ヨットハーバーになっている。
しかし水面に映る暗い山の緑と油壺というその名前になお五百年前の凄惨な悲しみを今に伝える。