夫は寺の下の小道に止めた車の中で、眠っているか 本を読んでいる… はず。夫はこのような時、いつも私を一人にして、私の気の済むまで待ってってくれる。
誰もいない境内の鐘楼の階段に私は一人座って目を閉じる。
湿り気を含んだ山の朝風の中に混ざるのは
鶯の声
風の音
ホトトギスの声
これでいいのだ。
もとより、ここに来て誰かに会えるなんて期待はしていなかった。
私は、この寺の中で この寺の境内に吹き渡る風に当たりたかっただけである。
ここに来れば 風が何かを教えてくれる。
青葉をくぐり抜けた 若い風の中で 目を閉じる。
ああ、450年前の時治を包んだ山の風だ。
もっと早くここに来るべきだった。
暫くすると 細道を登って白い軽トラックがザリザリと小砂利を踏んで境内の中に入ってきた。農作業姿の おじさんが車から降りて怪訝そうに私を見た。
どうした?
このお寺に来てみましたが 誰もいなくて‥
ああ、車がねえな。出かけてんだ。たいがい居るんだけどな。
このお寺、ご住職は居るのですか?
いるよ。たいがい居るんだけどな。
正木兵部大輔時治について知りたくて 三浦から来ました。
あー、三浦から… 三浦から来て留守じゃぁなぁ…
ええ、また来ます。何度でも来ますよ。
じゃぁ、なんなら、うちに来る?
え、だって畑の仕事に来られたのでしょう?
境内の隣は休耕の田圃だった。
いや、いいのさ。うちにこの相川について書いた古い本があるよ、見たらいい。
え!良いのですか?
構わないよ。
私は喜んで神子さんというその方の軽トラックについて、夫と追いかけたのである。
神子さんの客間でお茶を頂きながら、奥様と神子さんからこの相川地区の話を聞かせていただく。
若い世代が町に出て行って、相川は年寄りが多くなってしまったこと。
昔はどの家も大家族だったこと。
イノシシがものすごい勢いで増え続けていて、農作物が荒らされること。
イノシシは一回で十匹以上子を産むからいくら捕獲しても焼け石に水であること。
県がバカだからよ、ここにはイノシシは50頭位しかいねぇから、保護しなくちゃなんねえから、捕るな、と。
冗談じゃねェ、増えて増えてよ、今じゃどうにもなんねぇ。
鹿もよ、動物園が放し飼いにしてよ、それが山に入ってよ…
猿も、鹿もいるよ。皆学習して賢いよ。電気の線を張り巡らしても、下からくぐって畑を荒らすのさ。
学習しないのは、人間だけよ、と奥様が笑った。
ここに嫁いできた時、夜の鹿の鳴き声が怖くてね。
どこか、よその国の話を聞いているようだった。
ここが、東京からわずか一時間の所だなんて。
うんと遠くの、どこか森閑とした山奥に入り込んでしまったようだった。
見ず知らずの私に大切な本を貸せてくださった。
奥様が見性寺のご住職の携帯に何度も電話してくださって、思いがけず私は午後一時にご住職にお会いすることが出来たのである。