山を下りたところには川が流れている。
鮎が登ってくるところから鮎川、それから相川という名がついたという言い伝えがある両側が崖の美しい渓流である。昔は船が行きかうことができるほどの豊かな水量だった。
鎌倉道はここから水路となる。
相川に中ノ島という砂州ががあって、ここから船に乗る。
かつては水量豊かで船が上り下りした港である。
中ノ島のは天羽城の下にあるから、ここは正木兵部大輔を城主とした山城の大手門に当たるのだろうか。
ここで、彼らは船に乗り、相川から本流の湊川、そして上総港から広い江戸湾に出る。
海上に出たら、最短の直線航路で相模国の浦賀を目指す。
当時の浦賀は現在の久里浜港である。
ここから、さらに船で平作川に入り三浦半島の内部へ5Kほどさかのぼれば、正木兵部大輔の領地である公郷だ。
鎌倉道は再び陸路となって木古庭、逗子を抜けて鎌倉に至る。
つまり、正木兵部大輔の上総国の天羽城と三浦半島の知領地公郷へは水路で一直線に結ばれていたことになる。
もう一つ言える。
さらに鎌倉道は安房国長狭郡の正木時綱の山之城と鎌倉を結ぶ鎌倉道の途上に正木兵部大輔の城と彼の三浦半島の領地があったという事だ。
正木兵部大輔と正木時綱が一本の道でつながった事を確認した。
正木兵部大輔時治
正木時綱と同じ苗字「正木」を持つ時治
正木時網と同じ通字の「時」を持つ時治
正木時綱と同じ長狭郡に生きた時治
正木時綱と同じ戦国の時代を駆け抜けた時治
時治が正木時綱とそして三浦道寸と どれほど強い繋がりがあるのかを確かめに、明後日、また房総半島へ渡る。
海の武士(もののふ)正木時治
あなたはいったい何者か?