ここだよ
あんたの お父さんのお母さんの実家は
あんたのおばあちゃんの家だよ
82歳の叔母は言った
想像していたよりもうんと小さな神社だった
ここは新潟県村上市瀬波町 海辺の小さな神社
地元の人はそこを「おてんのう様」と呼ぶ
父が物心がつく前に 祖母は離婚して実家に戻ったのである
言葉では言いつくせぬ 色々なことが、あったのだろう
父の家と「おてんのう様」は歩いて五分足らずの距離
「おてんのう様」は父の遊び場で、幼い父は境内の木に登ったそうだ
駆け寄って抱きしめたい気持ちを抑えて 祖母は隠れて父を見ていたという
100年も昔のことだもの
子供を置いて家を出た母親は 二度と子供と会ってはならないそんな時代だった
叔母はそう言った
「おてんのう様」のお祭りの日には屋台が門前に並んでな
そこに立っていたら
知らない女の人が 鉄砲のおもちゃを買ってくれたんだ
誰かが あの人が あんたの本当の おっかぁだよ と囁いたのさ
家に帰って 俺が手にしている鉄砲を見て 継母が聞いたんだ
それは?
おてんのう様で本当の おっかぁが買ってくれた
あっという間に 鉄砲は取り上げられて そして捨てられたな
これは私が昔父から聞いた話だ
父の父も自転車で転んだ傷から破傷風になって死んだ
やがて祖母は優しいお豆腐屋さんと再婚し そして九人の子供に恵まれた
82歳になる叔母は父を入れて十人兄弟の末っ子だ
父と二十も年が離れている
父が旧制中学校に入学した時
毎朝同じ時間に、祖母は「ちょっと」と言って 出て行った
後で姉さんから聞いたことだけれど
あんたのお父さんが 学校に行く道を反対側から歩いて
すれ違うためだったんだってさ
叔母が言った
お父さんは毎朝すれ違う女の人が 自分の本当の母親だって 知っていたのかしら?私は聞いた
多分ね 叔母は微笑んだ
おばあちゃん、優しい人と再婚して 良かったよね 私は言った
父は中学校を卒業した後、一家の大黒柱として働き始めた
最初、織物工場で住み込みで働いて、それから小学校の用務員になった
幼い叔母は一人で小学校に行った
今日 母ちゃんが ごはんを食べに来いって
その頃、父は 異父兄弟から 宮部のあんちゃん と呼ばれていた
九人の子のうち二人は小さい時に死んじゃって
二人のあんちゃんは 戦死して
残った五人も
一人死に 二人死に
今は82歳の叔母と 寝たきりになって何も話してくれない91歳の叔母の二人だけになった
父のエピソードを 心の中の白い壺に
一つ 一つと丁寧に入れてゆく
父の遺骨 祖母の遺骨を 拾うように丁寧に 撫でながら
私と叔母だけの 父と祖母の思い出を 胸に抱えて
私が死んだ時
白い壺は私と一緒に白い煙になるのだろう
人は こんな風に 最後の記憶も消してゆく
父の登っていた木はだいぶ前に切り倒されたという
銀杏の切株があった
お父さんの登った木は この木かしら?
さあどうだろうね?首をかしげて叔母は微笑んだ
父は20も年下の この陽気な叔母が可愛かったに違いない
私は切り株から生えている細い枝から銀杏の葉を一枚摘んで
手帳に挟んだ
秋の夕暮れの 薄い光の中で