文明9年(1477)の春、長尾景春の被官の吉里の手勢に小山田保の小野路城は落城し、城山のふもとの小野神社の宮鐘は陣鐘として持ち去られてしまった。
この鐘が再び歴史の上で姿を現すのはそれから40年後である。
どのような経歴を経たのだろうか、この鐘は伊勢早瑞の手に渡っていた。
戦国の世になって、止むことなく戦は続き、その隙に登場したのが伊勢早瑞。
天下を手に入れようと熱望する、のちに北条早雲と呼ばれることになった野心家。
永正10年(1510)まず相模一国を我手に入れようとする宗瑞は相模の名門三浦一族に狙いを定める。
三浦一族を岡崎城、住吉城、大崩れ(長者埼)へと激しい合戦を仕掛けながら追い、ついに新井城の手前まで追い詰めた。
しかし、三浦一族は城の大手門にあたる引橋を落とし要害である新井城に籠った。
険峻な崖に架かる引橋を落とされて、宗瑞の勢は引橋の手前から先に進むことは出来ず、そこに陣を張った。
ここ三浦半島の先端で三浦一族の首元を押さえた宗瑞はまず鎌倉五山(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)を支配下に置き、鎌倉を掌握。
三浦半島の根元にあたる鎌倉の玉縄城を強固に固めて、三浦一族への援軍が三崎へ向かえないようにした。
それから東国の支配を強め上杉氏に狙いを定めてつつ、引橋ではゆっくりと三浦一族の籠もる新井城を兵糧攻めにかかることにしたのである。
陣を張った場所は現在三浦市菊名神台の引橋の鎌倉よりにある現在三浦消防署のある「神台」と考えられ、「陣ガ台」は現在「神台」という地名にかわっている。
宝暦六年(1756)に記された『三崎志』には次のように書かれている。
陣ガ台:菊名にあり
道寸の陣鐘この所にありと
文禄中、長谷川七左衛門
沼間海宝院に移せしなり
三浦一族に縁の深いこの鐘が陣鐘として、三浦一族を滅ぼすために、打ち鳴らされた。
彼らが死ぬ朝に聞いた最後の鐘の音だったろう。
そして新井城が落城して三浦一族が滅亡したことを知らせる鐘でもあっただろう。
何という不思議な恐ろしい因縁だろうか。
この鐘はその後どうなったか。
三浦一族は北条氏に攻め滅ぼされ
その北条氏は三浦一族を滅亡させた74年後に豊臣秀吉に攻め滅ぼされた。
豊臣秀吉も死んで、徳川家康の時代になった。
文禄中(1592~94)に徳川家康の信認の厚い長谷川七左衛門長綱が三浦郡の総代官となってやって来た。長谷川長綱は家康からこの鐘を拝領して、逗子の海宝院へ奉納したとある。
であれば、徳川家康がこの鐘を持っていたということか。
この鐘にまつわる海宝院の寺伝をもう一度見てみよう。
「永正十三年、北条早雲が三浦新井城に
義同、義意の父子を攻めたとき、
これを陣鐘として使用されたと伝えられている
徳川家康は、この鐘を八王子横山の
高山城に軍用のために取り寄せた」
アッ!
そうか、徳川家康はこの鐘を八王子で手に入れたのだ。
ひょっとしたら…
ねえ!明日、八王子横山の高山城に行こう!
何か分かるかも…
そう叫んだら、夫が言った。
今度は 八王子ですか…
八王子で何か美味しいもの御馳走するから、ということで八王子行きは決定。
八王子で何かしら、恐ろしい事実が解明されそうで、落ち着かない。
つづく