横須賀市史資料編で見つけた浄蓮寺過去帳。
そこには、次のように書かれていた。
七日 栄岩 三浦 (中略)
十一日 (中略)
道寸三浦殿七 道限同七(後略)
これは永正十三年七月十一日に亡くなった道寸と嫡男義意(よしおき)の事であるとの解説が添えてあった。
その事よりも、七日に死んだ栄岩とは三浦道寸の母、桂岩ではないかと私は気になった。
とても気になる過去帳であったが、ネットで浄蓮寺を探しても見つからず、このお寺は廃寺になったものと信じて久しかった。
しかし、先日、ネットで浄蓮寺を検索していたら、一番下に奥秩父の浄蓮寺が出て来たのである。
すぐにご住職に手紙を書いた。
過去帳の(中略)(後略)を知りたいのです、何か手がかりがありそうで。
御住職からお電話を頂き、先日アダムと飛んで行った。
格式高い日蓮宗のこのお寺は松山城主上田氏の菩提寺であった。
御前様はお忙しい中、二時間も時間を取って下さってこのお寺や上田氏の事について教えて下さった。
栄岩の(中略)からは何も手掛かりは無かったが、私は浄蓮寺でびっくりすることを知ったのである。
この過去帳の中に十月六日に亡くなった上田氏の名前が四人あった。
上田上野介貴道
上田貴伝
上田叡忠
上田叡信
『鎌倉大草子』の中に応永24年(1416)に鎌倉で勃発した上杉禅秀の乱で三浦道寸の曾御祖父さんの扇ガ谷上杉持氏定は六本松で深手を負い、遊行寺まで逃げたもののそこで自刃をした。しかしその時上田上野介松山城主も討死したことが書いてはあったが、私は小説の中に書きこんではいなかった。氏定の事ばかり書いた。
しかし過去帳で死んだ松山城主の(法名)は貴道であることを知った。
そしてその息子か弟らしきものの名は貴伝。
さらに叡忠、叡信は兄弟であることを知った。
上田氏は当主からその子、親族を一日で失うという壊滅的な打撃をあの六本松で受けたのである。
何て言う事だろう。先日の夕方に私は六本松公園へ行った。
あの誰もいない薄暗い雨の公園で、この四人は私の背中に乗ったらしい。
そして、私を浄蓮寺へ連れて来た。
そんな気がする。
無念の思いで死んだ上田氏の四人。いえ、もっと大勢いたかもしれない。過去帳にも載らなかった上田氏の家臣達。
六本松で彷徨っていた上田さん達、この奥秩父の浄蓮寺に帰って来たかったのかな。
私を浄蓮寺に連れて来た。そうではなくて、私は浄蓮寺行きのバスになって、皆を連れて来た、そんな気がする。
どうりで、体が重たかったですよ、上田さんの皆さん。
今頃、上田一族は浄蓮寺で賑やかに積もる話をしているかしら?
貴道、貴殿、叡忠、叡信の皆さん。ごめんなさい。無視していたわけではないのよ、知らなかったのです。
皆さんは私の小説に登場していただきましょう。
あの十月六日の六本松はどんなだったのか、どうぞ私に教えて下さい。